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2017.10.01

欧州散策ドイツ・ポツダム

 9月27日夕刻、ポツダム会談の会議場であったツェツィーリエンホーフ宮殿を訪問

学科で世界史を選択しなかった方でも、日本が受諾して終戦を迎えた「ポツダム宣言」の名は聞いたことがあるはず。戦後処理の諸問題を討議するため、戦勝国イギリス、アメリカ、ソ連の首脳いわゆる「3巨頭」(The Big Three)がドイツ・ブランデンブルグ州のポツダムに一堂に会し、1945年7月17日から8月2日まで開催された「ポツダム会議」の最終日に、その「ポツダム宣言」は表明された。ポツダム会議の開催場所が、「ツェツィーリエンホーフ宮殿(Cecilienhof Palace)」である。この日はポツダムの近くまで来たことと、夕刻から予定が空いていたため、見聞を広げ教養を高めるべく彼の地を訪れた。

3巨頭の写真。向かって左からソ連・スターリン書記長、アメリカ・トルーマン大統領、イギリス・チャーチル首相。

ポツダム会議の模様を今に伝える写真。机上の国旗と同じ方向の大きな肘掛け椅子に、3巨頭が座っている。

 ホーエンツォレルン王家によるドイツ帝国統治時代の最後の宮殿

ドイツの歴史を紐解くと、まだプロイセン公国だった頃からホーエンツォレルン家(House of Hohenzollern)の統治が続き、ビスマルク宰相の辣腕により初の統一国家であるドイツ帝国が成立したものの、1918年の第一次世界大戦で敗戦すると、当時のドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世が亡命、11月には専制君主制が崩壊して、ホーエンツォレルン家によるドイツ統治は終焉を迎えた。ポツダム会議の会場となったツェツィーリエンホーフ宮殿はホーエンツォレルン家統治時代最後の建造物で、当時帝位継承者だったヴィルヘルム皇太子とツェツィーリエ妃が過ごす居城として建造された。建築様式には、皇太子がイギリス旅行で気に入ったイギリス・チューダー王朝風の意匠がふんだんに盛り込まれたため、ポツダムにある他の宮殿より外観が地味な印象を受ける。現在は博物館のほか、建物の一部がホテルとしても運用されている(右下の写真がホテルの入口)。

来賓用中庭に面した、最も高さのある元・皇太子一家の居間だった部屋が会議場となった。下の写真の通り、芝生の中央には、今でもゼラニウムの花でソ連の赤い星が模られている。これは、終戦当時ポツダムがソ連軍の占領地区であり、会議に際してソ連が徹底的なインフラ改修と施設の補修・再整備を行ったためである。そもそもなぜポツダムが会議の地に選ばれた理由は、当初計画されていたベルリンが連合国軍によって壊滅的に破壊されていたことと、ポツダムは空港に近く便利な上に、ツェツィーリエンホーフ宮殿は湖に挟まれ治安上も国際会議に適したロケーションだったからである。

ヴィルヘルム皇太子一家は、第一次世界大戦後に不遇を強いられたが、1926年に身分相応の生活環境を取り戻した。その後、台頭してきたナチ党に王政復古の期待を寄せるが叶わぬまま、皇太子は45年、皇太子妃は54年に逝去した。

ツェツィーリエンホーフ宮殿の設計は、イギリスやスコットランドに研修旅行し、高級住宅の建造に豊富な経験を持つパウル・シュルツェ・ナウムブルクが行い、上流階級に相応しい内装装備をパウル・ルードヴィヒ・トローストらが手掛けた。

 3つの控室、3つの入場扉、交わらない各国の思惑が冷戦へと発展

皇太子夫妻とその家族の居間兼宴会場が会議場として用いられた。長さ26m、高さ12mあり、壁の2/3は樫の木張りである。船体を逆さにしたかのような木製の梁天井や、98枚の鉛ガラスを用いた張り出し窓などが特徴的で、カシの木彫りのダンツィヒ(現・グダニスク)風バロック様式の豪華な階段(立ち入り禁止)は、皇太子夫妻の私室がある2階へと続く。階段側の方が中庭(上の写真)に面しており、ガラス張出窓側はすぐ湖へとつながる緑地に面している。

会議場の丸3箇国の国旗が立てられており、旗が傾く先に各国の3巨頭が座っていた。その箇所だけ、背が高く一回り大きい肘掛け椅子が確認できる。部屋数の多い王族の宮殿ということもあるだろうが、会議場には3つの異なる開閉式の扉があり、3巨頭と随行者一行はその先の部屋を執務室として利用し、会議には3箇国別々の扉から入場したのである。

白のサロンと呼ばれるこの部屋は、元々小規模な音楽会のために作られた。ポツダム会談の開催中は、ビュッフェに客を招待したソ連側ホストの応接室として用いられた。

赤のサロンと呼ばれるこの部屋は、ツェツィーリエ妃の元書斎で、当時はバラ色の繊維性壁紙が貼られていた。会談中はソ連側の執務室として用いられた。

イギリス側の執務室として用いられたこの部屋は、皇太子の喫煙室としての機能を備えており、木の風合いが活かされた温かみのある落ち着いた色調に仕上がっている。

アメリカ側の執務室として用いられたこの部屋は、壁に書棚が組み込まれており(写真の反対側も)、机等の家具は会談用に別の宮殿から急遽持ち込まれたものである。

私は歴史に疎い方なので、ポツダム会談の歴史的意義についてはよく分からない。しかし、実際にポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿を訪ね、音声解説(日本語あり)を聞きながら一通り展示物と宮殿内施設を見学すると、ヨーロッパの戦後処理に携わった世界の主役たちの決して交わらない思惑と、彼らが戦後世界を弄んだ様子が、頭の中でザックリとイメージできた。3巨頭は決して世界を平和に導こうとした正義の味方などではなく、自国の利益を優先させる単なる一国の政治家であり、たまたまドイツに武力で勝利しただけなのに、我が物顔でやりたい放題振る舞った。何様?と、非常におぞましい感覚を持った。

ヤルタ会談のルーズベルト米大統領はポツダム会談前に死去し、チャーチル英首相は下院選挙の保守党敗北後、会談を投げ出して自国に戻った。テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談と皆勤賞のソ連独裁者スターリン書記長は、ただただ共産主義国家圏の拡大を目論んだ。ポツダム会談によって世界は西と東に分断され、“冷戦”という3巨頭の負の遺産にその後数十年にも渡って全世界が翻弄された。ポツダム会談で露骨になった “勝てば官軍” の論理は相互不信に基づく軍備拡大を呼び込み、翌46年3月にはチャーチルが「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパを横切る鉄のカーテンが下された」と有名な演説を行うに至った。結局ポツダム会談後10年間、再び3巨頭会談が開催されることがなかったそうだ。単なる一国の政治家達でしかなかった3巨頭は、その後の世界に対して果たすべき責任をしっかり全うできたのだろうか。

温故知新とはこのことで、過去の歴史に学んだ現在の主役である私たちが、自律的に行動してより良い未来を創造していくしかないのだろう。一人一人にできることがどれだけ小さいとしてもである。

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