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2018.02.23
氷のアムステルダム
2月22日、早朝から仕事でオランダに出向いた。何とか商談を成立させることができたが、奇しくもこの日は国民的アイドルグループで我らが“乃木坂ちゃん”こと『乃木坂46』の結成記念日(俗にいうバースデー)だった。縁起が良い。この調子で今期残りの3箇月も乗り切りたいところ。
ロンドンからオランダに飛ぶときは、いつもスキポール空港でレンタカーを借りて国内を動き回る。格安小型車を選ぶので過去2回はトヨタ・ヤリスだった。今回はさらに安いレンタカー屋(スキポール空港から無料シャトルバスで移動)に変えたため車種がやっとフィアット500に変った。せっかくのヨーロッパなので、欧州車に乗りたかったからこれ幸い。
22日の午後、翌日の訪問地に近いホテルへ移動して宿泊した。小さい池に面した洒落たホテルだったが、周りに民家はほとんどなく、池の水面は凍っていた。翌朝チェックアウトし、駐車場に向かうと何とレンタカーのフィアット500が、カッチコッチに凍っているではないか。これほど全身が凍った車は初めて見たので、急いでスマホのシャッターを切った。ちっこくて形が可愛いだけに、フィアット500が非常に不憫に思えてならない。因みに隣の車は朝来て駐車したらしく、一切凍っていない。
オランダは山の無い地形で、雪が降ることはほとんどない。その代わり、たくさんの運河や水分は凍ってしまう。20年以上昔の駐在時、観光地のザーンススカンスやアルメーレ社屋横の運河が凍り、その上を滑って転んだことがある。オランダでスケートが盛んなのも、雪ではなく氷という気象・地理的環境に由来する。
仕事を終え空港に向かう前に、少々時間があったのでアムステルダムのゴッホ美術館に足を延ばした。写真は青空だが、風は強く空気は肌を切り裂く寒さ。昔と違い、建物も鑑賞施設も新しく充実しており、音声ガイドを通じてゴッホの “独自画法確立までの格闘と葛藤” に深く触れることができた。つくづく、“芸術とはオリジナリティ(独自性)の追究” なのだなと実感することができた。自分の仕事にも活かしていきたい。
2018.02.15
極寒のサンクトペテルブルク
昨年の秋を考えていたのに、色々と忙しくて結局ロシア出張が決まったのは2月(12日~15日)、歴史的にも1年で最も寒い時期。当然VISAが必要なので、その取得のために一時パスポートを預けなくてはならないから、確実に出張が入らない時期を見て段取りしていたらこのタイミングにまで延びてしまった。私にとっては初ロシアだ。
出張先の顧客曰く、「最近は暖かい」。そうは言っても気温はマイナス5度~8度。2月にマイナス30度以上の記録を持つ彼の地(サンクトペテルブルク)では、確かに暖かいのかもしれない。街中に雪は積もり、雨どいを通った水は凍り、ご覧の通り川面までガッツリ凍った状態だったが、滞在した期間は青空に恵まれ、雪や雨は降らなかった。不幸中の幸いか。
頭の天辺からつま先まで、完璧な防寒ギアで身を包む。
そこそこの広さの川も、雪と氷でご覧の状態。
サンクトペテルブルクで最も高いという42階建てのビル、その屋上のレストランでご馳走になった。確かに、東京やロンドンと比べ、それほど高い近代的なビルは見当たらない。夕方は雪で白い街並みが眼下に広がっていたが、夜はオレンジ色の照明で、街が黄金色に輝いているようだった。
仕事でスケジュールが埋まっており、名所旧跡を巡る時間は無かったが、顧客が特別な体験を用意してくれた。有名なオペラ劇場「Mikhailovsky Theathre (ミハイロフスキー劇場)」でのオペラ鑑賞である。演目は「La traviata (ラ・トラビアータ)」、邦題「椿姫」。世界的に上演回数の多い人気オペラである。ミュージカルは何作も観ているが、オペラは初めてだ。
早めに入場したので記念撮影していたが、会場は瞬く間に観客で埋まっていった。上演中は写真撮影厳禁なので、カーテンコールの際にパチリ。劇場の雰囲気も舞台の様子も素晴らしかった。ただ、オペラだけにイタリア語歌唱、ロシアだけにロシア語字幕ときたもんで、演じられている内容は想像力で組み立てるしかなかった。それでも貴重な機会となった。
ご存知の通り、サンクトペテルブルクは旧ロシア帝国の首都であり、かつてはレニングラードやスターリングラードなど、時の権力者の名が冠されたロシアの代表的都市で、名所旧跡には事欠かない。問題は気候だ。1年に9箇月が冬と言われているほど。次回訪問する時は、できれば少し暖かい季節に来て、もっと都市の文化や歴史、人々の暮らしにも触れてみたい。
2017.10.01
欧州散策ドイツ・ポツダム
9月27日夕刻、ポツダム会談の会議場であったツェツィーリエンホーフ宮殿を訪問
学科で世界史を選択しなかった方でも、日本が受諾して終戦を迎えた「ポツダム宣言」の名は聞いたことがあるはず。戦後処理の諸問題を討議するため、戦勝国イギリス、アメリカ、ソ連の首脳いわゆる「3巨頭」(The Big Three)がドイツ・ブランデンブルグ州のポツダムに一堂に会し、1945年7月17日から8月2日まで開催された「ポツダム会議」の最終日に、その「ポツダム宣言」は表明された。ポツダム会議の開催場所が、「ツェツィーリエンホーフ宮殿(Cecilienhof Palace)」である。この日はポツダムの近くまで来たことと、夕刻から予定が空いていたため、見聞を広げ教養を高めるべく彼の地を訪れた。
3巨頭の写真。向かって左からソ連・スターリン書記長、アメリカ・トルーマン大統領、イギリス・チャーチル首相。
ポツダム会議の模様を今に伝える写真。机上の国旗と同じ方向の大きな肘掛け椅子に、3巨頭が座っている。
ホーエンツォレルン王家によるドイツ帝国統治時代の最後の宮殿
ドイツの歴史を紐解くと、まだプロイセン公国だった頃からホーエンツォレルン家(House of Hohenzollern)の統治が続き、ビスマルク宰相の辣腕により初の統一国家であるドイツ帝国が成立したものの、1918年の第一次世界大戦で敗戦すると、当時のドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世が亡命、11月には専制君主制が崩壊して、ホーエンツォレルン家によるドイツ統治は終焉を迎えた。ポツダム会議の会場となったツェツィーリエンホーフ宮殿はホーエンツォレルン家統治時代最後の建造物で、当時帝位継承者だったヴィルヘルム皇太子とツェツィーリエ妃が過ごす居城として建造された。建築様式には、皇太子がイギリス旅行で気に入ったイギリス・チューダー王朝風の意匠がふんだんに盛り込まれたため、ポツダムにある他の宮殿より外観が地味な印象を受ける。現在は博物館のほか、建物の一部がホテルとしても運用されている(右下の写真がホテルの入口)。
来賓用中庭に面した、最も高さのある元・皇太子一家の居間だった部屋が会議場となった。下の写真の通り、芝生の中央には、今でもゼラニウムの花でソ連の赤い星が模られている。これは、終戦当時ポツダムがソ連軍の占領地区であり、会議に際してソ連が徹底的なインフラ改修と施設の補修・再整備を行ったためである。そもそもなぜポツダムが会議の地に選ばれた理由は、当初計画されていたベルリンが連合国軍によって壊滅的に破壊されていたことと、ポツダムは空港に近く便利な上に、ツェツィーリエンホーフ宮殿は湖に挟まれ治安上も国際会議に適したロケーションだったからである。
ヴィルヘルム皇太子一家は、第一次世界大戦後に不遇を強いられたが、1926年に身分相応の生活環境を取り戻した。その後、台頭してきたナチ党に王政復古の期待を寄せるが叶わぬまま、皇太子は45年、皇太子妃は54年に逝去した。
ツェツィーリエンホーフ宮殿の設計は、イギリスやスコットランドに研修旅行し、高級住宅の建造に豊富な経験を持つパウル・シュルツェ・ナウムブルクが行い、上流階級に相応しい内装装備をパウル・ルードヴィヒ・トローストらが手掛けた。
3つの控室、3つの入場扉、交わらない各国の思惑が冷戦へと発展
皇太子夫妻とその家族の居間兼宴会場が会議場として用いられた。長さ26m、高さ12mあり、壁の2/3は樫の木張りである。船体を逆さにしたかのような木製の梁天井や、98枚の鉛ガラスを用いた張り出し窓などが特徴的で、カシの木彫りのダンツィヒ(現・グダニスク)風バロック様式の豪華な階段(立ち入り禁止)は、皇太子夫妻の私室がある2階へと続く。階段側の方が中庭(上の写真)に面しており、ガラス張出窓側はすぐ湖へとつながる緑地に面している。
会議場の丸3箇国の国旗が立てられており、旗が傾く先に各国の3巨頭が座っていた。その箇所だけ、背が高く一回り大きい肘掛け椅子が確認できる。部屋数の多い王族の宮殿ということもあるだろうが、会議場には3つの異なる開閉式の扉があり、3巨頭と随行者一行はその先の部屋を執務室として利用し、会議には3箇国別々の扉から入場したのである。
白のサロンと呼ばれるこの部屋は、元々小規模な音楽会のために作られた。ポツダム会談の開催中は、ビュッフェに客を招待したソ連側ホストの応接室として用いられた。
赤のサロンと呼ばれるこの部屋は、ツェツィーリエ妃の元書斎で、当時はバラ色の繊維性壁紙が貼られていた。会談中はソ連側の執務室として用いられた。
イギリス側の執務室として用いられたこの部屋は、皇太子の喫煙室としての機能を備えており、木の風合いが活かされた温かみのある落ち着いた色調に仕上がっている。
アメリカ側の執務室として用いられたこの部屋は、壁に書棚が組み込まれており(写真の反対側も)、机等の家具は会談用に別の宮殿から急遽持ち込まれたものである。
私は歴史に疎い方なので、ポツダム会談の歴史的意義についてはよく分からない。しかし、実際にポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿を訪ね、音声解説(日本語あり)を聞きながら一通り展示物と宮殿内施設を見学すると、ヨーロッパの戦後処理に携わった世界の主役たちの決して交わらない思惑と、彼らが戦後世界を弄んだ様子が、頭の中でザックリとイメージできた。3巨頭は決して世界を平和に導こうとした正義の味方などではなく、自国の利益を優先させる単なる一国の政治家であり、たまたまドイツに武力で勝利しただけなのに、我が物顔でやりたい放題振る舞った。何様?と、非常におぞましい感覚を持った。
ヤルタ会談のルーズベルト米大統領はポツダム会談前に死去し、チャーチル英首相は下院選挙の保守党敗北後、会談を投げ出して自国に戻った。テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談と皆勤賞のソ連独裁者スターリン書記長は、ただただ共産主義国家圏の拡大を目論んだ。ポツダム会談によって世界は西と東に分断され、“冷戦”という3巨頭の負の遺産にその後数十年にも渡って全世界が翻弄された。ポツダム会談で露骨になった “勝てば官軍” の論理は相互不信に基づく軍備拡大を呼び込み、翌46年3月にはチャーチルが「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパを横切る鉄のカーテンが下された」と有名な演説を行うに至った。結局ポツダム会談後10年間、再び3巨頭会談が開催されることがなかったそうだ。単なる一国の政治家達でしかなかった3巨頭は、その後の世界に対して果たすべき責任をしっかり全うできたのだろうか。
温故知新とはこのことで、過去の歴史に学んだ現在の主役である私たちが、自律的に行動してより良い未来を創造していくしかないのだろう。一人一人にできることがどれだけ小さいとしてもである。
2017.09.30
欧州散策ポーランド・ワルシャワ
9月26日夜 ポーランドの首都ワルシャワ旧市街を散策
9月26日に仕事でポーランドのワルシャワに行った。その晩、食事をしに旧市街へと足を運んだ。ポーランドはEU加盟国でありながらユーロの使用が認可されていない。EUからの支援が無いと発展もままならない経済状況らしいが、ワルシャワの中心地はドイツの都市と何ら遜色のない賑わいだった。中心街の幹線道路には路面電車が走っており、いかにも旧共産圏の見栄を張った大型建造物が目についた。その割には物価が安く、宿泊したホテルもベルリンより良かった。しかし、ワルシャワと地方都市とでは格差があるそうな。まあ、どこの国もそんなものだろう。
王宮広場の入口には、首都をワルシャワに遷都したジグムント3世の記念碑(Sigismund's Column)が建っている。
ワルシャワは13世紀から城郭都市として発展したらしい。王宮広場沿いの城壁が、その歴史を現代に伝えている。
王宮広場から少し入ったところに、旧市街広場と呼ばれるマーケット・プレイスがある。存在はベルギー・ブラッセル(ブリュッセル)のグラン=プラスに近いが、建築様式が質素なため比べるとかなり見劣りする。しかし、廃墟と化した街並みを昔のように復元し、ポーランド国民の歴史と精神性を取り戻した姿なので、様式の奥にある愛国心と市民の情熱に美しさを感じる。ワルシャワ旧市街は、「破壊からの復元および維持への人々の営み」が評価された最初の世界遺産となった。
予期せぬ出会い! コペルニクスとショパン
商談のための準備に忙しかったので、ワルシャワについては何の予備知識も持たず訪ねたのだが、天文学系の器具を持ったオジサンの像(写真左)の横を見ると、どうもコペルニクスと読める。ポーランド語でミコワイ・コペルニク、そう地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスのモニュメントなのだった。
夜中にも拘らず出入りしている建物があると思って近づくと、ワルシャワ大学の入口(写真左3段目)だった。その横のプレート(写真下2段目)を見ると、ポーランド語でフルィデールィク・ショペーンと書いてあるではないか。お恥ずかしながらクラシック音楽に疎い私は、ショパンがワルシャワ出身だとは知らなかった。ここで10年間学んだらしい。
コペルニクス像の背後には、国立のポーランド科学アカデミー(PAN: Polska Akademia Nauk)が建っている。
大統領官邸(旧ラジヴィウ宮殿)と、ナポレオンのワルシャワ公国建国に貢献した英雄ユーゼフ・ポニャトフスキの像。
ワルシャワ大学の入口。遅い時間でも開門しており、人が出入りしていたので覗いてみると大学だった。
左の写真の右端の柱に取り付けられているプレート。ショパンが1817年から27年まで“住んで学んだ”と記されている。
訪問した時間帯が夜だったため、写真で見ると夜景が綺麗だが、街全体の姿は把握しがたく、時間も予備知識も無かったので、本当に行き当たりばったりの散策だった。結構、科学や歴史にまつわる観光資源は豊富なようなので、是非次の機会を見つけて昼間に来てみたいものだ。ポーランドは移民を受け入れていないこともあり、ロンドンと違って街中にアラブ人が溢れていない。人の外観や言葉は、ドイツよりロシア寄りといった感じ。純粋に観光で来られる方でも、ワルシャワは十分楽しめる都市だと感じた。プライベートで、他の東欧諸国も訪ねてみたいと思っている。