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Engineering / 工学美
Chapter 3 - Section 3
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第3章 第3節
第3節では、美しいスタイリングの奥に隠された、エンジニア達の情熱と挑戦のドラマを掘り下げます。
F1程ではないにしろ、スーパーカーには各時代で最先端のエンジニアリングが投入されてきました。F1はサーキット上で順位を競いますが、市販スーパーカーは先進性や独創性などをライバル車達と競い合います。
実用車ではないため、生産台数や売上だけが成果にはなりません。デザイナーやエンジニア達の創意工夫と挑戦心が結実した、スーパーカーとしての存在そのものが成果です。時代の評価(先進性)、歴史の評価(独創性)、そして自らのプライドを賭けた挑戦に勝利したかという自己評価が、判断の決め手となります。
具体的にどういう切り口で判断するのか、1990年代を代表する2台のスーパーカー、マクラーレンF1とブガッティEB110を例に説明します。もちろん、他のどの車種にもドラマがあり、少し掘り下げるだけで感じられる魅力が倍増します。
掌上わずか10cmほどの3D造形物から、実車に秘められた開発の歴史や挑戦の物語を味わうことができるのも、1/43モデルカーならではの楽しみ方です。
Artwork: McLaren F1 Press Version 1991
マクラーレン F1 プレスバージョン 1991年
Description
McLaren-Honda awarded two F1 titles of 1988 season with MP4/4 driven by Ayrton Senna and Alain Prost winning 15 races out of 16. Behind the competition, McLaren set a new project in motion in 1989 and established McLaren Cars (McLaren Automotive since 2010) to produce road cars based on the F1 technology and assigned the MP4/4 designer Gordon Murray to design the ultimate road car. BMW provided 632ps natural aspirated 6.1 litre V12 Engine and the body was styled by Peter Stevens who designed Jaguar XJR15. The model car is prototype XP-1 at the first presentation in 1991 and slightly different from the production car in 1993. Gordon decided to back up racing teams of GT car championships and launched McLaren F1GTR as a GT1 racing car in 1995, which was crowned the Le Mans Winner 95.
作品解説
アイルトン・セナとアラン・プロストがマクラーレン・ホンダのMP4/4でF1シーズン全16戦中15勝という快挙を成し遂げていた頃、マクラーレン(イギリスのF1コンストラクター)はかつて断念した量産公道車(ロードカー)の生産に再び着手します。そのため1989年に市販車を開発製造する子会社マクラーレン・カーズ(現在のマクラーレン・オトモーティブ)を設立し、MP4/4の設計者ゴードン・マレー(南アフリカ出身)に新型車の開発を一任します。F1パートナーのホンダはNSXで忙しく、古巣のF1チーム・ブラバムにエンジン供給をしていたBMWから、636psの自然吸気6.1リッターV12エンジンを提供してもらいました。エクステリア・デザインはジャガーXJR15などを手掛けたピーター・スティーブンスです。写真のモデルカー(D&G製)は1991年メディア初披露となった開発試作車第1号(XP-1)で、特徴的なサイドミラーなど、1993年からの市販車とは細部が異なっています。1995年にはロードカーのGTレース仕様マクラーレンF1GTRを発表し、同年のル・マンで初出場にして初制覇という快挙を成し遂げました。
Drama behind the Beautiful Styling / 美しい外観に隠された物語
Bugatti EB110 / ブガッティ EB110
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製造会社: ブガッティ・アウトモビリSpA(イタリア)
製造期間: 1991~1995年
エンジン: 3.5リッターV12DOHC5Vクワッド(4基)ターボ
駆動方式: ミッドシップ・フルタイム4WD(全輪駆動)
生産車種: GT, Supersports, S, SS
Ultimate Lamborghini
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究極のランボルギーニ
フランス車として知られるブガッティですが、創業者エットーレがイタリア人であることから、1987年イタリア人エンスージアスト達の手によって、モデナで復活を遂げました。
新しいメーカーの創設計画には、当初ランボルギーニ創業者のフェルッチオも関わっていましたが、「今さら幽霊の名を持ち出しても」* とブガッティ復活には否定的で、参画しませんでした。しかし、再興計画を強力に主導した人物は、かつてランボルギーニでミウラやカウンタックなどを設計したエンジニア(後に役員も務めた)パオロ・スタンツァーニです。
社内にデザイナー部門を持たなかったため、新生ブガッティ第1号車のスタイリングは、ランボルギーニ時代の盟友マルチェロ・ガンディーニに託されました。こうしてランボルギーニ発展の立役者が再び手を組み、カウンタックでは成し遂げられなかった究極のスーパーカー作り、そう2人の “夢の続き” が、ブガッティという名を借りて始まったのです。
完成したブガッティEB110にフェルッチオは、「君、ブガッティを見たかね、あれは凄いよ」* と感想を述べています。逝去する1993年の少し前のことです。フェルッチオの想像を超えた完成度に、志半ばで潰えたスーパーカー事業への心残りも消散したに違いありません。
EB110は、冠するブランド名や出資した社長名に関わらず、私にとっては創業者フェルッチオが認めた最後にして究極のランボルギーニ・スーパースポーツなのです。
*昔読んだインタヴュー記事の記憶に基づく表現です。
The Highest Performance
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最高水準の性能
2人が目指したブガッティは、名車カウンタックの技術的問題点を全て克服し、完璧なエンジニアリングが実現された、時代の最先端を行く理想のスーパーカーでした。
まず、シャーシ構造には、カウンタックからディアブロに継承されたスチール製スペースフレームではなく、革新的なアルミ製モノコック・タブ(生産車はCFRP製)を採用し、剛性の向上と軽量化を果たしました。フェラーリがF50(1995年)でカーボン・モノコック・タブを初採用する4年前のことです。
V12エンジンを縦置きするカウンタックでは、コンパクトなパッケージングを実現する工夫として、エンジンを前後反転させ前方にギアボックスを配置しました。さらにEB110では、エンジンを左にオフセットすることでドライブ・シャフトを平行に配置し、エンジンの低重心化に成功しています。
エンジンは、ショート・ストローク型3.5リッター60度V12に、滑らかに過給する4基のターボ・チャージャーを組合せ、高出力化(560~650ps)と小型軽量化を両立させました。さらに、カウンタックで導入を断念したフルタイム4WDを採用し、ロードカーとして全天候型の安定走行を実現しています。
カウンタックの美しいスタイリングは、実は多くの空力的問題を抱えており、後付けエアロパーツで対応しても解決できませんでした。一方、EB110は同じウェッジ・シェイプでありながら、時速340kmを超える高速走行でもバランスの良いダウンフォースが得られます。カウンタック以降、ガンディーニが20年間追求してきた美と空力の融合が達成されました。
しかし、エンジニアリングの理想を追求したスタンツァーニとガンディーニは、ビジネスの夢を追った社長のロマーノ・アルティオーリ(元フェラーリ・ディーラーの経営者)と衝突し、EB110に自らの銘を刻むことなく、ブガッティを去ります。
結局、巨額の先行投資で再興されたブガッティは、最大の功労者を排斥して、ブランド力を確立・行使できぬまま資金に行き詰り、1995年に破産します。まさに “儚き夢” した。
フランスからイタリアへと漂流したブガッティですが、1998年ドイツの巨人フォルクス・ワーゲンに買収されます。かのフェルディナント・ポルシェの孫、ピエヒ会長(当時)は、このブランドで一体どういう夢を実現させたかったのでしょうか。
Intricate Process of Styling
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スタイリング決定までの錯綜
スタンツァーニとのタッグで斬新なスタイリングを煮詰めてきたガンディーニは、直線基調のプロトタイプを完成させました。モデルカーでは、唯一フランスのノレブ社から1/43で作品化されています。
完成を間近にしながら、最先端スーパーカーであることより、伝統的ブガッティであることを優先したアルティオーリは、エクステリア・デザインの変更を指示します。しかし、ガンディーニはノーズにブガッティ伝統の馬蹄形を盛り込む要求を拒否し、袂を分かちました。
天才デザイナーの離脱後、他のカロッツェリアにリデザインを依頼したものの優れた案が出ず、細部の意匠変更で対応することになりました。任されたのはアルティオーリの親族で、ブガッティ工場を設計した建築家ジャンパオロ・ベネディーニです。ブガッティらしいか判断はできませんが、他の車種とは異なる独創的なアピアランスに仕上がったことは確かです。
同じ頃の1990年、イタルデザインがブガッティID90を発表しますが、ブガッティ発注のデザイン・スタディではなく、自社独自のコンセプトカーのようです。全面ガラス張りのキャビンとセミ・ガルウィングは、後のM12(91年)やナスカC2(92年)へと継承されています。
元々ガンディーニ・ファンの私は、彼の直線基調でまとめられたプロトタイプ・デザインが大好きです。同時に、市販車の高性能型(スーパースポーツ、S、SS)デザインも大好きです。
市販初期型(GT)のデザインが、華やかな風でキレが無いのに対し、高性能型はパネル化したリア・クオーターにターボ冷却用の丸い通気口を配置し、BBS鍛造ホイールを7本スポーク仕様に、リアの可変スポイラーを固定式に変更したことで、全く別車種のようにスパルタン化されました。
ガンディーニのウェッジ・シェイプ・フォルムはそのままに、過度な角張りを削って柔らかい流線一体形(ブロック型)にリデザインされ、ジェット戦闘機を彷彿とさせる “マシーン感” に満ちた造形に仕上がっています。
写真のモデルカーは、1994年ル・マン出走車のプロバンス・ムラージュ・キットを、ロード・バージョンとして製作してもらいました。私が大好きな作品の1台です。
McLaren F1 / マクラーレン F1
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製造会社: マクラーレン・カーズ(イギリス)
製造期間: 1993~1998年
エンジン: BMW自然吸気6.1リッターV12DOHC48V
駆動方式: ミッドシップ・リアドライブ
生産車種: F1, GTR(GTレースカー), GT(公認用)
A Dream of Bruce McLaren
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Bruce Leslie McLaren
170mph(時速274km)
Dan Gurney
Denny Hulme
ブルース・マクラーレンの夢
現在はスーパーカー・メーカーとして知られるマクラーレンですが、元々は1963年にイギリスで設立されたレーシング・チームです。フォーミュラ1(F1)には66年に初参戦し、2014年までに12回のドライバーズ・タイトル(世界王者7名)、8回のコンストラクターズ・タイトルを獲得した名門チームで、その創設者がニュージーランド・オークランド出身のレーシング・ドライバー、ブルース・レズリー・マクラーレンです。
1958年にイギリスへレース留学したブルースは、翌59年モナコGPにてクーパー・チームからF1デビューし、最終戦アメリカGPで初優勝(22歳)を果たします。その後43年間破られなかったF1最年少優勝記録となりました。
さらに、ル・マン24時間耐久レースでは66年にフォードGT40で総合優勝、FIAグループ7(排気量無制限2座オープン・プロトタイプカー)の北米レースCam-Am(カンナム)では67年と69年にシリーズ優勝を成し遂げます。67年優勝車は独自開発のマクラーレンM6Aで、初マクラーレン・オレンジのオープン・ボディにシボレー製V8エンジンを搭載したミッドシップ車でした。
F1、ル・マン、Cam-Amを制したブルースは、グループ7より知名度が高く、市販スポーツカーで戦うグループ4(後のグループB)への参戦を表明します。そのため1969年、M6Bのシャーシにクーペ・ボディを架装したマクラーレン初のロードカー、M6GTを開発します。ブルースは自らプロトタイプ(OBH500H)を日常の足に使い、量産への夢を膨らませていきました。しかし、公認に必用な50台の生産計画が立たず、量産型はトロージャンが3台製作しただけで、グループ4への参戦は見送られました。
マクラーレン・ブランドでロードカーを年間250台生産し、その車でル・マンも制覇するという夢を抱いたまま、Cam-Am69年王者のブルースは70年開幕戦(カナダ)に向け、6月2日イギリスのグッドウッド・サーキットで新型M8Dを試験走行していました。速度が時速270kmに達するとリア・カウルが外れ、スピンしてコースを飛び出したM8Dは防護用の土手に激突・大破してしまいます。投げ出されたブルースは首の骨を折り、志半ばで32年の生涯を閉じました。
チームの存続すら危ぶまれる中、12日後にはブルースの代役として急遽参戦したダン・ガーニーが開幕戦を制覇し、ブルースの盟友デニス・ハルムが70年王者を獲得します。ブルースの遺志とレースに懸ける情熱は、見事にマクラーレン・チームへと継承されていきました。
その23年後、ブルースが果たせなかった量産ロードカーの夢を、F1黄金期にロン・デニスとゴードン・マレーが実現します。「マクラーレンF1」(1993年)です。そのGTレースカー仕様「F1GTR」は、95年のル・マン24時間耐久レースで総合優勝を果たします。勝利を記念して5台だけ限定生産された同スペックのロードカー「F1LM」のボディは、ブルースに捧げるマクラーレン・オレンジに彩られていました。
Ultimate Road Car
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central driving position
overall drag coefficient
£540,000(当時約1億円)
究極のロードカー
ゴードン・マレーは、エンジニアリングに妥協しなかったブルースの遺志を継ぎ、究極のロードカー開発に挑みます。
同時代のスーパースポーツには、86年ポルシェ959、87年フェラーリF40、90年ディアブロ、91年ブガッティEB110、92年ジャガーXJ220と、自動車史に名を残す個性的名車揃いです。しかし、93年に登場したマクラーレンF1は、それら全てが色褪せてしまうほど、革新的なエンジニアリングが投入されました。
最先端のF1技術を惜しみなく盛り込んだ“ロードカー”は、レースカーにも劣らない運動性能、誰もが運転できる快適な操作性能、そして日常使いにも便利な実用性能までも兼ね備え、正に夢の自動車“ドリームカー”に仕上がりました。
世界初のフル・カーボン・コンポジット製のモノコック・シャーシにV12エンジンを搭載し、車体寸法はV8のF40より全長も全幅も一回り小さく、乗員数は1人多い3名です。V6のXJ220からは全長57cm・全幅18cm・車重210kgも小型軽量で、V12のディアブロより504kgも軽い車体です。
ボディ・スタイリングは空力的にも優れており、空気抵抗係数0.32は、十数年後に登場する最速記録車2台、SCCアルティメット・エアロ(2007)の0.357、ブガッティ・ヴェイロン(2010)の0.36よりも小さく抑えられています。
エンジンはミッドシップ、そしてステアリングとドライバーズ・シートも中央に設けられ、1人乗りの際は左右の重量配分が均等になります。トランクは車体の両側面にあり、結構な量の手荷物を収容できます。トランクすらミッドシップ(ホイールベース内)に配し、乗員数、燃料、手荷物など、あらゆる条件が変わっても重心位置はほとんど変わらない設計です。
ターボに依存するスーパースポーツが多い中、運転時の反応の良さを重視して、大排気量(6.1リッター)自然吸気のV12エンジンが選択されました。最大出力は当時ギネス記録の636ps(627BHP)を発揮します。1998年の最高速テストでは391km/hを記録しました。2015年現在でも、自然吸気型ロードカーとしては世界最速です。
高い運動性能を直接感じられるように、パワーステアリングやABS、トラクション・コントロールなどの電子制御アシストはほとんど用いない一方で、高速運転を継続しても室温を上昇させない高性能エアコンや、ケンウッドに特注したCDチャージャーの搭載など、快適性が追求されています。また、イギリスの「AUTOCAR」誌が1994年に行ったロードテストでは、燃料消費率がリッター15.2kmだったそうです。
総生産目標300台が掲げられましたが、販売は振るいませんでした。54万ポンド(当時約1億円)という価格もさることながら、購入審査や転売制限など、想定顧客の富裕層には煩わしい諸条件が付随し、さらに当時は自動車メーカーとしての知名度が全く無かったことなど、理由は様々です。
その結果、5年間でわずか64台しか生産されませんでした。“究極”のロードカーは、その真価を理解した“究極”の顧客の手にだけ渡っていったのでしょう。ブルースの夢の完結は、先に持ち越されてしまいました。
One and Only Design
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Butterfly doors
空前絶後の独創的デザイン
私がマクラーレンF1を知ったのは、オランダ駐在時に手にした現地の専門誌でした。開発試作車第1号のXP-1(1991年)が表紙を飾っていました。日本の『カーマガジン』誌等とは違い薄っぺらい雑誌ですが、よほど衝撃的だったのか、購入した時の情景を今でも鮮明に記憶しています。
最も印象的だったのは、柔らかい曲線でまとめられたコンパクトなボディと、大きなヘッドライトでした。小顔の女性の瞳が大きく見えるのと同じ原理でしょう。さらに、極端に切り詰められたリア・オーバーハングのプロポーションに、この車が抱える何か特別な素性を感じました。
既成概念が覆されたのは、フェラーリ・テスタロッサ以降、ミッド・エンジン車の定番デザインであったボディ側面のエア・インテークが無く、フロントタイヤの後ろから斜め上方に大きく刻まれたエア排出口が存在することです。「前後、逆やん」と。もちろん逆な訳はなく、これは車体前方に搭載したラジエータからの排熱口で、エンジンへの吸気口はルーフ中央に設けられています。通常エア・インテークがあるべき場所に、トランクが設計されていたなど、91年当時は知る由もありません。
誰もが一番最初に指摘する最大の特徴は、3座センター・ステアリング方式のシート・レイアウトと、そこに乗り込むためのバタフライ・ドアでしょう。しかし、外観上派手なバタフライ・ドアは、67年にアルファ・ロメオ・ティーポ33/2ストラダーレが市販ロードカーとして初採用しており、マクラーレンF1の独創的な個性ではありません。
マクラーレンF1におけるエクステリア・デザイン最大の個性は、高度なエンジニアリングを見事なエアロダイナミクスで包み込んだ、コンパクトなパッケージングではないでしょうか。大仰な空力パーツは一切なく、ピーター・スティーブンスの描く優しい曲線によって、全体が統合された一つの空力フォルムを形成しています。生まれ持った素性が良いから、後から何も加える必要が無いのです。
自動車が工業製品である限り、技術革新によって性能は向上していきます。しかし、“ロードカー”として総合評価するならば、マクラーレンF1は21世紀においても“究極の1台”として君臨し続けることでしょう。